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佐賀地方裁判所 昭和43年(行ウ)1号 判決

原告 鹿毛智

被告 国立佐賀大学学長

訴訟代理人 布村重成 境吉彦 本村博彦 ほか三名

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事  実 〈省略〉

理由

第一当裁判所の認定した事実

一  本件処分

原告が、昭和四一年四月大学に入学し、その在学生であつたところ、大学学長である被告が、昭和四三年三月一四日、原告を退学処分に付し、その旨通告したことは当事者間に争いがない。

二  本件処分に至る経過

1  大学における学内紛争

〈証拠省略〉ならびに弁論の全趣旨を総合すると、次の事実が認められ、他に右認定を覆えすに足りる証拠はない。

(一) 学寮の電水料負担をめぐる紛争

大学には、理工、経済および農学部男子学生を収容する不知火寮ならびに教育学部男子学生および全学部女子学生を収容する筑紫野寮が置かれているが、右学寮は、それぞれ旧制佐賀高等学校および旧制佐賀師範学校の寄宿舎を母体として発足したため、旧制当時の管理運営形態がそのまま踏襲され、不知火寮では、当初電水料を学生が全額負担していたが、その後一部負担に変更されたのに対し、筑紫野寮では、これを教育学部の予算から全額支給し、寮生には負担させない取り扱いがなされていた。

ところが、筑紫野寮は、建物の老朽化のため補修費がかさみ、電水料の全額負担は、学部当局にとつてかなりの重圧であつたうえ、電水料金の値上げも重なり、国庫より支給される光熱水道料関係の予算では、これをまかなうことができなくなつた。そこで、教育学部では、やむなく右不足分を他の経費から捻出していたが、その不当性が会計検査院から指摘されるに及び、さらに文部省の昭和三九年二月一八日付各国立大学長宛の学寮における経費の負担区分に関する通達および同年八月同省が各大学の新寮建設参考案として例示した学寮運営規則参考案には、いずれも電水料の一部を寮生に負担させるべきであるとの見解が示されていたことから、大学当局は、筑紫野寮の電水料の一部を寮生に負担させる方針を決定し、寮生にその同意を求めた。

しかし、寮生は、右電水料の一部負担は、これまで国庫が負担していた寮費の一部を寮生に負担させるいわゆる受益者負担の拡大をねらつた文部省の前記通達に追随するものであつて、学生の既得権の侵害となるばかりか、経済的に恵まれない学生の生活を侵害し、ひいては教育の機会均等を奪うものであり、他方では、前記学寮運営規則参考案によつて、大学当局の学寮に対する管理運営権限の強化をはかり、寮生の自治活動を規制ないし弾圧する文部省の文教政策に盲従するものであるとして、前記方針に強く反対し、寮生大会において反対決議をしたうえ、大学当局に対し、正式にその旨回答した。

ところが、大学当局は、個々の寮生に対し、説得活動を続けるうち、これに同意する寮生も現れたため、右寮生大会の反対決議も寮生代表ら一部学生の意見に引きまわされたものに過ぎず、大部分の寮生はこれに同意しており、一部反対者に対してもさらに説得を続ければ、最終的にはその承認を得られるものと判断し、昭和三九年一〇月二〇日の教育学部教授会および同月二三日の評議会において、寄宿舎規定の一部を改正し、昭和四〇年一月一日から筑紫野寮における電水料の一部を寮生に負担させることを決定した。

これに対し、寮生は、右改正は寮生の生活実態を顧慮することなく、寮生大会の反対決議を無視した暴挙であるとして強く反発し、電水料の不払いを決定するとともに、右改正の白紙撤回を要求し、各学部自治会、連合自治会に支援を求めた結果、右自治会において、電水料問題を全学的な間題としてとりあげることが確認され、全学共闘が組織されるに至り、不知火寮においても電水料の納入を拒否する旨が決定された。

(二) 寮生の入退寮選考権をめぐる紛争

教育学部当局は、前記寄宿舎規定の一部改正に伴い、昭和四〇年度新入生に対して、電水料半年分六〇〇円の前納を条件に入寮を許可する方針を決め、従来慣行として行われていた、寮生によつて組織される寮委員会が第一次選考を行い、次に学部当局が右寮委員会と協議して第二次選考をして最終的に入寮者を決定するいわゆる寮生の自主募集方式を改め、専ら学部当局の責任において入寮者の募集選考を行うこととしたうえ、新入生に対し、父兄の電水料支払誓約書を同封した入寮申込書を配布した。

これに対し、学生側は、右の措置は、これまで慣行として認められてきた寮生の自主選考権を全く無視するものとして強く反発し、従来どおりの寮生による自主募集方式を主張して、学部当局と鋭く対立したため、電水料をめぐる紛争は、さらに寮生の入退寮選考権をめぐる紛争へと拡大していつた。

(三) いわゆる「しおり協定」、「七・七協定」および「二・二確認事項」

こうした電水料および入退寮選考権をめぐる紛争を打開するため、大学当局と学生代表との間に、昭和四一年四月六日、学寮間題について、今後双方が誠意をもつて話し合つていくこと、そのため双方とも話し合いの場を確保するよう努力することなどを確認したいわゆる「しおり協定」が成立し、ついで同年七月七日、当時建設が計画されていた新寮の管理運営について、今後学寮対策委員会を設置し、その中で話し合つていくことを確認したいわゆる「七・七協定」が、さらに昭和四二年二月二日、新寮建設に関する案件は、双方が協議決定したもののみを唯一の原案にすることを確認したいわゆる「二・二確認事項」がそれぞれ締結され、大学側にも学生側にも、ようやく話し合いによつて問題を解決していく気運が醸成された。

(四) 学生との話し合いと懇談会規定

ところが、大学には「学校と学生の懇談会規定」が制定されており、同内規によれば、大学側は学生部長、補導委員(学生部長の諮間機関として、学生の補導、厚生などについて審議する補導協議会の委員で、主として各学部の教官がこれにあたる。)、学生課長、各学部事務長および学生部各係長、学生側は各学部自治会委員一五名程度が一堂に会して、毎月一回または臨時に懇談会を開催することとなつていたことから、大学当局は、右内規に基づく懇談会が大学と学生との唯一の話し合いの場であるとの見解に立ち、前記各協定によつて確認された話し合いも、右懇談会形式によらねばならないと主張していわゆる学生団交を拒否し、学生数が右懇談会形式によつて認められる限度を越えた場合には、直ちに話し合いを打ち切る態度をとつたため、人数を制限しない学生団交を強く要求する学生側と鋭く対立し、さらに、大学当局が、専ら新寮建設間題について話し合いを進めようとしたのに対し、学生側は、旧寮に関する従来からの電水料および入退寮選考権問題をまず解決すべきことを主張したため、この点でも双方の意見が対立し、問題の実質的協議がなされないまま、話し合いは毎回のように空転した。

(五) 講堂撤去をめぐる紛争

これより先、大学においては、昭和四一年四月、文理学部が改組されて、経済学部、理工学部および教養部が設置されるとともに、教養部校舎の新築が計画され、昭和四二年七月までに着工が予定されていたところ、その敷地確保の見とおしがつかなかつたため、昭和四一年一二月ころ、大学当局は、文理学部講堂を撤去して、その跡地に右新校舎を建設することを決定した。

ところが、右文理学部講堂は、当時クラス、サークル等の自主活動の場としてあるいは講演会、集会等学生の自治会活動の場として広く使用されていたため、学生側は右講堂撤去に強く反対し、また右撤去が決定されるに際し、学生に対する事前の説明や意見聴取が行われなかつたことにも強い不満を抱き、大学当局は学生の自治活動を破壊し弾圧するものであると断じて、強力な反対運動を展開した。

(六) 新入生に対する入寮募集と第一次処分

このような状況下にあつて、寮問題に関する大学当局と学生側との話し合いは、実質的審議がなされないまま、いたずらに空転するばかりであつたところから、学生側は、大学当局が前記の協定に違反していると非難するとともに、昭和四一年度および昭和四二年度新入生に対し、従来どおり寮生による自主募集に踏み切つた。そのため、昭和四二年度新入生については、大学側の入寮募集と重複する結果となり、この事態を重視した大学当局は、昭和四二年六月二四日、右自主募集を断行した寮委員五名に対し、大学の管理権を侵害したという理由で、うち三名を無期停学処分に、二名を訓告処分に付するいわゆる第一次処分を実施した。

(七) 学生のストライキ突入とその後の経過

第一処分によつて、学生側は一挙に態度を硬化させ、全学共闘は新たに各学部自治会を加盟させた全闘委を組織し、電水料負担条項白紙撤回、入退寮選考権確保、講堂撤去阻止および第一次処分撤回を闘争目標に掲げて、直ちに学生大会を開き、同年六月三〇日より完全授業放棄による全学無期限ストライキに突入し、正門をはじめ大学構内には机、椅子等によつてバリケードが構築され、文理学部講堂には約一二〇名の学生が籠城した。

この間、大学当局は、学長告示、学生部長告示および各学部長告示等により、学生らに良識ある行動を要求し、警告を発するとともに、同年七月八日には、被告学長みずから寮生代表を含む学生代表との交渉に応じ、その状況をスピーカーで学内に放送するという措置をとるなどして学生の理解を求めたが、学生側の受け入れるところとならず、紛争解決への動きは全くみられなかつたばかりか、第一次処分の撤回を要求する学生らは、同年七月一二日、教育学部長に対し、その処分理由の説明を求めた際、同学部長が明確な回答をしなかつたことを不満とし、同学部長を長時間にわたつて追求したため、同学部長が疲労で倒れるという事態まで発生した。

(八) 第二次処分とその後の経過

このように、学生側の行動が次第に激化し、紛争が拡大、長期化の様相を呈してきたことを憂慮した大学当局は、紛争の早期解決をはかるため、ストライキを指導した者および過激な行動をとつた者の責任を厳しく追求することとし、同年八月一日、全闘委の指導者ら学生二四名に対し、大学の秩序を破壊したという理由により、うち一四名を退学処分に、一〇名を停学処分に付すいわゆる第二次処分を断行した。

こうした大学当局の態度に、学生側は一層反発の度を強め、今回の紛争は、大学当局が前記各協定を遵守せず、不誠実な態度をとり続けてきたことに起因するにもかかわらず、学生に対し、処分をもつてのぞみ、みずからの責任を一方的に学生に転嫁しているものと論難し、処分の不当性を強く主張してその撤回を求めるとともに、前記各協定に従い、直ちに学生団交に応ずべきことを要求した。しかしながら、双方の実質的な話し合いは遂に行われないまま、同年八月三日文理学部講堂は撤去された。

その後しばらくは、大学が夏休みに入つたこともあつて、膠着状態が続いたが、同年八月二八日から集中講義が始まり、また夏休み明けの同年九月一一日からは講義が再開されたところから、学生側は校門その他校舎出入口にピケを張り、受講学生の出入りを封じるなど講義を阻止する行動に出たため、これを実力で排除しようとする教官、事務職員らと激しく衝突した。

そうした状況が続くうち、期末試験の実施時期が近づいたため、学生側は、大学当局に処分学生の学内復帰を求めるとともに試験の延期を申し入れ、これらの要求が容れられれば、ストライキの解除に全力を尽くすという態度を示したところから、双方の間に非公式の折衝が続けられ、同年九月二八日、被告学長と学生代表との間に、最悪の事態を避けるため(一)大学は試験を五日間延期すること、(二)この間大学側は前記処分学生の処遇について基準の検討を開始すること、(三)学生側はストライキ解除のため誠意を示すことの三点について協定が成立した。

しかしながら、右協定条項二項について、双方の解釈にくい違いがあつたうえ、これまでの紛争によつて互いに根強い不信感をつのらせていたこともあつて、相互に協定違反を主張して、必ずしも協定条項を誠実に履践しなかつたため、結局五日間が経過した後もストライキは解除されず、かえつてピケやバリケードが強化された。そのため、大学当局は、まず教職員による説得ないしは排除を試みたが効を奏せず、ついに同年一〇月三日から同月七日まで合計一七回にわたり、警察機動隊を導入してピケ学生を実力で排除し、試験の実施を強行した。

こうした大学当局の強硬な措置に対しては、大学教職員内部にも批判の声が起こり、数回にわたつて、機動隊導入に対する抗議声明が出されたりしたが、他方、ストライキ批判の声もようやくたかまり、同年一〇月二三日、一一六日振りにストライキは解除され、大学構内は一応の平穏を取り戻した。しかし、ストライキ解除後も、大学当局と学生側との実質的な話し合いは何一つ行われず、紛争の原因となつた学寮問題の根本的解決は全くみられなかつた。

2  学内紛争における原告の行動

〈証拠省略〉を総合すると、原告は前記のストライキ闘争が開始されたころから、これに積極的に参加するようになり、前記の文理学部講堂撤去の際には、バリケード構築に従事し、同講堂にしばらく籠城したこと、また前記の夏休み明けの授業再開阻止の際には、ピケ隊の一員として受講学生の入室阻止に加わつたこと、さらに後記のとおり、大学側が再三学生の設置した立看板を撤去した際、他の学生らとともに大学当局に対し激しく抗議したことが認められる。

3  大学における掲示物の取り扱いと立看板撤去

〈証拠省略〉を総合すると、次の事実が認められ、他に右認定を覆えすに足りる証拠はない。

大学には「佐賀大学集会掲示等に関する内規」(以下掲示内規という。)があり、これによると、学内の掲示物は学生部に届け出て認印を受けなければならないこと、所定の掲示場以外の掲示は特別に許可された場合を除き許されないこと、掲示は虚偽の記述もしくは名誉の毀損にわたつてはならないこと、学生の団体及びその団体の行動が大学の機能を害し又は学内の秩序を乱す恐れがあると認められたときはこれを禁止することがあることなどが定められているところ、前記学寮間題をめぐる紛争が始まつた昭和三九年ころから、学生によるビラの配布、立看板の掲示、マイク放送等が活発に行われるようになり、とくに昭和四一年一一月ころからは、学生の反対闘争の激化に伴い、掲示内規に違反した無許可の立看板や掲示物が目立つようになつた。

そこで、大学当局は、学生側に対し、再三かゝる掲示物の自粛を促し、無許可の立看板等を撤去するよう求めたが、かえつて、学生側は、掲示内規によつて学生の掲示物を規制することは、憲法の保障する表現の自由を侵害するものであると主張し、右内規の改正を要求して、これに応じようとしなかつた。

このため大学当局は、昭和四二年一月ころから、掲示内規の改正の要否につき検討を加えることとし、補導協議会、教授会および評議会を開いて審議したが、賛否両論があり、なかなか意見の調整がつかずにいたところ、前記第一次処分問題の発生により、審議は中断されてしまつた。

その後、同年一二月七日ころ開催の学部長会議および補導協議会において、掲示物規制の問題がとりあげられ、規則が存在する以上、これを守るのは当然であるとして、掲示内規を厳守していくことが確認され、無許可の立看板等については、予め学生に警告のうえ、これに従わないものは、大学の各管理部局においてその都度撤去することが決定された。そして、右の撤去は実施に移されたが、学生側の反発も強く、無許可の立看板等は後を断たなかつた。

こうした状況のもとで、昭和四三年二月初め、学生自治会が、「電水料撤回」「入退寮選考権完全確保」「紀元節復活反対」「田中学長糾弾」「エンタープライズ寄港阻止」などと大書した立看板七枚を正門および通用門付近に無許可で立てたので、大学当局は、再三その撤去を求め、警告を発したが、学生側がこれに応じなかつたため、同年二月七日午後九時ころ大学側管理責任者において、右立看板をすべて撤去焼却した。

4  事件の発生

(一) 木室事件

〈証拠省略〉ならびに弁論の全趣旨を総合すると、次の事実が認められ、他に右認定を覆えすに足りる証拠はない。

(1) 昭和四三年二月八日、前記立看板が大学当局によりすべて撤去されたことを知つた学生側は、直ちに連合自治会中央執行委員会を開き、右撤去に抗議するとともに大学当局の謝罪を要求することを決定し、またその前日農学部で行われた学生部長交渉が、懇談会形式による交渉としては、学生数が許容限度を越えたことを理由に、実質的審議に入らないまま打ち切られたため、その議題であつたクラス、サークルボツクスおよび自治会の新入生に対するオリエンテーシヨン問題等につき、大学当局と早急に話し合いをする必要があつたので、学生部長藤井義典に面会を申し入れることとし、約一五名の学生が、同日午前一二時すぎ、学生課事務室に赴き、学生課長補佐木室祐七に対し、藤井学生部長の所在を尋ねたところ、同課長補佐が知らないと答えたため、「学生課は学生部長の所在を把握しておくのが任務ではないか。」「早く捜せ。」などといつて、同課長補佐に詰め寄つた。しかし、同課長補佐が「君たちの命令は受けない。」「学生部長の私的な行動についてまでいちいち把握しておく義務はない。」などといつてとり合おうとしなかつたため、これに激昂した学生らは「学生部長を出せ。」などと口々に怒鳴りながら、同課長補佐を取り囲み、同事務室から退出しようとした同課長補佐を押し戻し、その襟首をつかんで胸部を手で小突きあるいは立ち上がろうとすると「しやがめ。」などといつて、両手でその両肩を押さえつけてすわらせたうえ、同課長補佐をして無理矢理藤井学生部長の研究室や自宅などに電話させたり、同課の職員に捜しに行かせたりした。

(2) しかし、藤井学生部長の所在がなかなかわからなかつたので、学生らは、木室課長補佐が故意に藤井学生部長を隠しているものと疑い、「お前隠しているんじやないか。」などといつて追求を続け、同課長補佐の机上にすわり込んで同人のすねを数回蹴りあげ、さらに机上にあつたペン皿からペン軸や小刀を取り出し、右ペン先を同人の胸元に突きつけあるいは右小刀をその面前で開閉するなどして一層激しい追求を繰り返した。そして、同人が用便のため、椅子から立ち上がろうとしても、「その手にのらないぞ。」「用便をさせる必要はない。」などといつてこれを阻止し、そのため、同人は多数の学生の前で、事務職員の差し入れたビニール袋に用を済まさなければならなかつた。

その間、同事務室は、立看板撤去に抗議するため、続々と詰めかけて来た学生で一杯となり、室内はこれら学生の野次と怒号で騒然となつた。

(3) 一方、大学当局は、補導委員が学生事務室に赴き、木室課長補佐を解放するよう再三学生らの説得にあたつたが、学生らは、これに応じようとしなかつたばかりか、同日午後四時すぎごろ、学生部長名で学生自治会室のスピーカーの撤去を求める警告が出されてからは、「学生部長は学内に居るはずだ。」「お前は部長を隠している。」「学生部長を出すまでは絶対に出さない。」などといつて一層激しく詰め寄り、同課長補佐の健康状態を心配した保健係長井上光雄が血圧を測定した結果、血圧が異常に低く、危険を感じて外に連れ出そうとしても、「やぶ、お前に何がわかるか。」などと罵声を浴びせ、スクラムを組んで立ち塞がりこれを阻止するなどした。しかし、井上係長において、同課長補佐が一年前肝臓疾患で入院し、その後も時折医師の診察を受けていることを学生に説明して説得を続けた結果、同日午後五時ころ、学生側もこれを一応了解し、同課長補佐を解放するかどうか話し合いを始めようとしていた矢先、大学当局が、学生自治会室のスピーカー撤去を断行したため、学生側は、一挙に態度を硬化させ、再び学生部長が出て来るまでは絶対に解放しないと強硬に主張し、同日午後七時ころ、校医が同課長補佐の健康診断のため入室しようとした際にも、スクラムを組み、前方に立ち塞がつて押し返すなどしてこれを阻止し、結局、藤井学生部長が話し合いに応ずることを承諾した同日午後一〇時五〇分ころまで約九時間にわたり、同課長補佐を監禁した。

(4) ところで、学生らによつてその所在を追求されていた藤井学生部長は、そのころ、農学部図書館で実験資料の調査にあたつていたが、同日午後一時ころ、学生課事務官杉馬場義昭から、多数の学生が同部長の面会を求めて木室課長補佐を追求している旨の報告を受けるとともに、被告学長から同課長補佐を救出する対策を協議するため学長公舎に来てもらいたいとの連絡を受けたので、同日午後二時ころ学長公舎に赴き、被告学長と対策を検討したが、これまでの学生らとの話し合いは、ほとんど懇談会規定を無視し、多数の学生が押し寄せて来て長時間大学側を追求することが多かつたうえ、一部の補導委員から、学生と会わない方が良いと忠告されたため、同公舎から、電話で、学生課長久永大に対し、補導委員と連絡をとり、木室課長補佐の救出にあたるよう指示を与えた。そこで、同日午後三時ころ、右連絡を受けた補導委員約一三名が学長室に集まり、対策を協議した結果、ともかく学生を説得することとし、午後三時すぎころから再三にわたり、学生課事務室に赴き、木室課長補佐を解放するよう説得したが、学生らはスクラムを組み、補導委員の入室を阻止するなどして全くこれに耳をかそうとはしなかつた。

(5) そこで、藤井学生部長は、同日午後五時ごろ、久永課長に命じて、学生自治会室のスピーカーを撤去させ、学生らの注意をこれに向けきせて、その間隙を縫つて、木室課長補佐を救出することを試みたが、かえつて、学生らを激昂させたにとどまり、同課長補佐を救出することはできなかつたので、同日午後八時三〇分ころ、学長室に赴き、前記補導委員と協議した結果、木室課長補佐をこのまま放置しておくことはできないと判断して、本館二階教養部長室において、学生らとの話し合いに応ずることを決定し、直ちにその旨を電話で学生らに連絡した。

しかし、学生らは、右学生部長の言葉を信用せず、学生部長自身が学生課事務室に出頭することを求めて、これに応じようとしなかつたが、補導委員が再三説得した結果、同日午後一〇時五〇分ころ、学生らは、教養部長室に先発隊を派遣して、藤井学生部長の所在を確認した後、ようやく木室課長補佐を解放し、全員教養部長室に移動した。

(二) 藤井学生部長事件

〈証拠省略〉を総合すると、次の事実が認められ、他に右認定を覆えすに足りる証拠はない。

(1) 藤井学生部長および補導委員一三名は、前記のとおり、学生らに話し合いに応ずる旨を伝えるとともに、教養部長室に机、椅子などを用意して待機していたところ、同日午後一一時ころ、約一〇〇名の学生が入室し、同室内に用意された右机などを「こんなものは邪魔だ。」などといつて片隅に押しやつた後、藤井学生部長および補導委員らを取り囲むようにしてその場にすわり込み、直ちに立看板撤去等に対する抗議を始めたため、同学生部長は「これでは話し合いができない。」「責任ある話し合いを持ちたいから、懇談会規定に従つて、一五名程度の代表を選出してほしい。」旨要求したが、学生らは「我々は抗議に来たんだ。」「話し合いは後だ。」などといつてこれに応じようとしなかつた。

しかし、同学生部長は、あくまで懇談会規定に従つた話し合いを要求し、学生の人数を制限するとともに、処分を受けた学生の即時退出を求め、さらに「立看板およびスピーカーは、掲示内規に違反しているから撤去するよう警告してあり、警告に従わない場合は、大学側で撤去していくのが従来からの方針であるから、謝罪はしない。」「このような圧力のかかつた状態での話し合いには応じられない。」などといつたため、学生らは騒然となり、「馬鹿野郎。」「ふざけるな。」「お前は文部省の犬以下だ。」「教育者なら教育者らしくしろ。」「辞表を書け。」などと口々に篤声を浴びせかけ、さらに翌九日午前零時ころ、教職員らの入室を阻止するため、教養部長室の廊下側出入口二か所に会議用机を積み重ねるなどしてバリケードを築き、監視者を置いて外部との通行を遮断したうえ、同学生部長の足もとまでテーブルを押しつけ、その上にすわり込んだり、同学生部長の大腿部を手で押えつけあるいはその面前でテーブルに灰皿を叩きつけて割るなど激しい抗議行動を繰り返した。

(2) このような学生らの抗議と謝罪要求は、夜を徹して執ように続けられたが、その間、学生らは藤井学生部長および補導委員が何度か用便のため席を立とうとしても、「逃がすな。」「謝罪に応じなければ出さない。」「二日くらいは便所に行かんでも良い。」などといつてスクラムを組み、その前方に立ち塞がりあるいは押し戻したりしてその都度これを阻止し、同学生部長らが疲労のため仮眠をとろうとすると、「こら起きとけ。」「お前ら反動は眠るな。」などと怒鳴つて妨害し、職員らが朝食を差し入れようとしても「食わせる必要はない。」などといつて、これを奪い取つたりした。

一方、大学当局は、緊急事態に備えて、教職員らを待機させるとともに、同日午前一〇時ころから再三にわたり、被告学長みずからスピーカーで学生部長らを解放するよう呼びかけるなど学生らの説得にあたつたが、学生らは全くこれに耳をかさず、同日午前一二時ころ、学生に対する退去命令が出された後も、これを無視して従おうとはしなかつた。

(3) そのうち、学生らは、立看板撤去に対する抗議を打ち切り、学寮間題、クラス、サークルボツクスおよび新入生に対するオリエンテーシヨン問題など早急に解決を要する問題について話し合いを要求する態度に出たため、同日午後二時ころ、藤井学生部長と学生らとの間に、右の点の基本的な合意が成立し、ひとまず混乱した状況が打開されるかにみえたものの、同学生部長がこれを文書で確認することを拒否したため、学生らは再び態度を硬化させ、「口約束では信用できない。」「署名するまでは用便行きを阻止しよう。」「今夜もまた撤夜で追求する。」などといつて、同学生部長および補導委員の生理的要求を阻止する構えを見せ、さらに、同日午後五時ころ、同学生部長が、疲労のため、長椅子に横になろうとしても「起きろ、話し合いに応じろ。」「署名せよ。」などといつてこれを妨げ、あくまで同学生部長が前記合意を文書で確認することを要求した。こうして、学生らの激しい追求を受けた同学生部長は、疲労のため、補導委員の肩に寄りかかりながら、しばらくこれに応答していたが、そのうち、疲労が重なつて長椅子に倒れ込んでしまつた。

(4) このため、大学当局は、医師の往診を要請し、同日午後穴時五〇分ころ、右要請を受けた諸隅医師が診察のため入室しようとしたところ、学生らは「あとは文書に署名するだけだ。」「それまで医師を入れるな。」などといつてこれを妨害し、さらに、藤井学生部長のところにようやくたどりついた同医師が同学生部長を診察した結果、血圧が非常に高かつたため、学生らに、「非常に危険だから出しなさい。」と告げても「馬鹿野郎。」「やぶ医者。」「馴れ合いだ。」「騙されないぞ。」「何という病名だ。署名さえもできないような状態か。」などといつてこれに応せず、なおも同学生部長に協定書をつきつけ、署名を求め続けた。

(5) そこで、大学当局は、藤井学生部長を救出するため、救急車の出動を要請する一方、同日午後七時すぎころ、事務職員らが、廊下側出入口より、二度にわたつて担架を搬入したが、学生らは、最初の担架を奪い取り、二度目に運び込まれた担架に補導委員らが藤井学生部長を乗せて室外に搬出しようとすると、スクラムを組み、その前方に立ち塞がつてこれを阻止し、また救急車の要請を受けた佐賀消防署員らが、救急車から担架を運び入れようとした際にも、同署員らを足蹴りにし、身体で押し返すなどしてこれを阻止し、さらに、廊下側の窓わくに釘を打ちつけ、毛布を張り巡らし、黒板や衝立を立てるなどして室内を完全に遮蔽し、同日午後八時すぎころ、事務職員らが藤井学生部長を救出するため、廊下側出入口から入室しようとして、出入口に立てかけてあつた机を押し倒そうとした際にも、同職員らを足蹴りにし、ゴム紐状のものを同職員らめがけて机越しに振り降ろしあるいは灰皿を投げつけるなど激しく抵抗してこれを阻止し、ついに同日午後八時五〇分ころ、大学当局の要請によつて警察機動隊が出動し、藤井学生部長らを救出するまで、約一九時間にわたつて、同学生部長および補導委員ら教官を監禁した。

5  木室事件および藤井学生部長事件における原告の行動

〈証拠省略〉を総合すると、原告は、二月八日、学生自治会のスピーカー放送により、大学当局によつて、自治会の立看板が撤去されたことを知り、同日午前一二時すぎころ、これに抗議するため学生課事務室に赴き、他の学生らが木室課長補佐を取り囲んで藤井学生部長の所在を追求した際、同課長補佐の耳元で「学生部長を出せ。」などと大声で怒鳴つたりしたこと、その後一たん同事務室を出て、当時所属していた英会話クラブのサークル室に行つたりしたが、その後もしばしば学生課事務室に出入りしていたこと、同日午後五時ころ、大学当局が学生自治会室のスピーカーを撤去した際、これを阻止しようと自治会室まで出向いたが、直ちに学生課事務室に引き返し、同室内の学生らに右スピーカー撤去の事実を告げたこと、同日午後七時ころ、校医が木室課長補佐を診察するため、同事務室に立ち入りたい旨申し出た際、入口附近で、「それじや聞いてくる。」などといつてこれを取り次いだ後、学生らが教養部長室に移動するまで、同事務室内にいたこと、ついで、同日午後一一時ころ、他の学生らとともに教養部長室に赴き、藤井学生部長および補導委員を取り囲むようにして床の上にすわり込み、学生代表の激しい抗議の最中、他の学生らとともに「もつとまじめにやらんか。」「しつかりしろ。」などと大声で怒鳴つたりしたこと、また、学生らが補導委員の用便行きを阻止した際も、他の学生らとともに、二回にわたり、用便に立とうとした補導委員の前方に立ちはだかり、これを押し戻したりして阻止したこと、翌九日午前三時ころから、同室の床の上に横になり、ごろ寝していたが、同日午前一一時ころ、一たん同室を出て、英会話クラブのサークル室に行き、さらに不知火寮に戻つて夕食をとり、入浴を済ませたうえ、再び教養部長室に引き返し、前記学生部長を乗せた担架が搬出されようとした際、他の学生らとともに、その前方に立ち塞がるなどしてこれを阻止し、その後事務職員らが、同学生部長救出のため、廊下側出入口に立てかけてあつた机を押しのけて入室しようとした際、右職員らめがけて机越しにゴム紐状のものを数回振り降ろすなどしてこれを妨害し、同日午後八時五〇分ころ、警察機動隊により排除されるまで同室に在室していたことがそれぞれ認められる。

もつとも、原告は本人尋問において、「藤井学生部長を乗せた担架の搬出を阻止した覚えはない。そのころは不知火寮に帰つていて、教養部長室にはいなかつた。」「ゴム紐状のものを振り回したりしたこともない。」旨供述しているが、証人高田京一(第一回)および同富山清は「原告が右担架の前方に立ち塞がるのを見た。」旨明確に証言し、さらに証人池田貞美、同宮口尹男、同富山清は「原告がゴム紐状のものを机越しに数回振り降ろしていたのを目撃した。」旨証言しているところ、右各証言によると、右証人らは、補導委員として、原告を以前から十分知つていたこと、富山証人および高田証人は、藤井学生部長を乗せた担架の先頭を持つて搬出しようとした際、いずれも至近距離から学生らの行動を目撃していたこと、宮口証人はゴム紐状のものを振り降ろしていた原告のそばに行き、原告の肩をたたきながら、これを制止したことが認められ、従つて、当時教養部長室がかなり混乱した状態にあつたことを考慮しても、右証人らが他の学生と原告とを誤認混同したとはとうてい考えられず、右の各証言は十分信用することができ、これに反する原告の前記供述はにわかに信用できない。

さらに、〈証拠省略〉を総合すると、右担架の搬出阻止が行われた時刻は、同日午後七時三〇分ころから午後八時ころまでの間であつたと推認しうるところ、原告は、本人尋問において、「午後七時ころまでにNHK第二放送の英語番組を聴き、それから夕食をとり、入浴した後、午後七時三〇分すぎころ寮を出て、午後八時すぎころ教養部長室に戻つた。」旨供述しているが、原告本人尋問の結果によると、原告は右の時刻を正確に確認したものでなく、およその時刻を割り出したものにすぎないことが認められるので、三〇分程度の時間的誤差は生じうるといえるし、〈証拠省略〉によると、河野正郎が当日寮内で原告と一緒に入浴した時刻は、だいたい午後六時ころから午後七時ころまでの間の一五分ないし二〇分間ぐらいであつたと認められるので、夕食、入浴時刻を午後七時以降とする原告の前記供述は必ずしも信用するに足りない。

三  本件処分の手続

1  大学における懲戒処分の手続

〈証拠省略〉によると、大学においては、学校教育法一一条、同法施行規則一三条を受けて、佐賀大学学則が制定されており、その四四条には、学生にして学則に違反しまたはその本分に反する行為があるときは、審議のうえ、学長が懲戒することと定められているほか、右懲戒処分の手続に関し、学生懲戒手続に関する内規が制定されており、同内規によると、一学部の学生に関する懲戒処分の場合は、その学部の教官によつて構成される補導委員と学生部長の協議により事実の調査を行い、それに基づいて懲戒の原案を作り、これをその学部の教授会で審議した後、学部長はその結果を学生部長を経て学長に申達し、二学部以上の学生に関する場合は、関連する各学部の補導委員と学生部長の協議によつて事実の調査を行い、それに基づいて懲戒の原案を作り、これを関係学部の教授会の審議に付した後、関係学部長はその結果を学生部長を経て学長に申達し、学長はこれを評議会の議に基づいて決定するとされていることが認められる。

2  本件処分の手続

〈証拠省略〉ならびに弁論の全趣旨を総合すると、次の事実が認められ、他に右認定を覆えすに足りる証拠はない。

(一) 昭和四三年二月九日午後八時五〇分ころ、教養部長室から救出された補導委員教官数名は、前日から当日にかけての一連の学生の行動を記録に留めることとし、同夜直ちに各自の目撃した状況をまとめ、事件の経過報告書を作成したうえ、これを翌一〇日開催された全学補導協議会(学生部長と全学部の補導委員によつて構成される。)に提出した。同協議会は、右報告書について協議検討したうえ、これに基づき、事件の概要を評議会に報告したところ、評議会は同協議会に正式に事実の調査を命じた。そこで、全学補導協議会は、評議会と緊密な連絡をとりながら、前記報告書を更に検討し、同月一六日ころ、これに若干の修正を加えて「学生部長不法監禁事件状況経過」と題する書面(〈証拠省略〉)を作成し、これを評議会に提出したので、評議会は、右報告書を審議検討した結果、本件事件に加わつた学生を懲戒処分に付する旨を決定し、直ちに全学補導協議会に懲戒の原案を作成するよう命じ、これを受けて、全学補導協議会は、同月二六日懲戒の原案を作成し、各学生の所属する教授会にこれを送付することとしたが、原告は経済学部に所属していたものの、当時まだ教養部の学生であつたので、原告に対する右の懲戒原案は、経済学部教授会および教養部教授会に送付され、それぞれ審議された。ところで、全学補導協議会が作成した懲戒原案によると、原告に対する懲戒の種類は、退学処分であつたのに対し、経済学部教授会は訓告処分を、教養部教授会は停学処分を相当とする旨決議したため、右各教授会決議が、各学部長より学生部長を経て学長に申達され、評議会の審議に付された際にも、原告に対しどの懲戒処分をなすべきかにつき、意見の一致をみなかつた。そこで、原告に対する処分については、再度両教授会に審議が差し戻され、意見の調整がはかられた結果、経済学部教授会は教養部教授会の決議に同調し、原告を停学処分に付する旨決議を変更したが、評議会は右各教授会の決議に難色を示し、結局翌三月一三日最終的に原告を退学処分に付する旨決議し、被告学長は、右評議会の決議に基づいて、原告に対し本件処分を行つた。

(二) そして、本件処分は、翌一四日、学内掲示場に掲示されるとともに、「学生懲戒について」と題する書面(〈証拠省略〉)をもつて原告に通知されたが、右掲示および通知にはいずれも処分の理由が記載されていなかつた。一方、原告は、同日右学内掲示によつて退学処分に付されたことを知り、直ちにこれに抗議するため、逸見経済学部長に面会を求めたところ、同学部長は、退学決定書(〈証拠省略〉)に基づき、原告に本件処分の理由を口頭で説明した。

第二当裁判所の判断

一  学生懲戒処分の本質

大学は、学問的研究を行い、その成果を発表するとともに、広く専門教育を行うことを目的とした研究と教育の機関として、教官、職員および学生をもつて構成される共同体ということができるが、大学における研究と教育は、自由にして創造性に富む環境と条件が具備されてはじめて可能となるところから、憲法は「学問の自由」を保障し、これを実質的に担保するため、大学の管理運営を大学内部の自主的決定に委ねるいわゆる「大学の自治」を認めており、大学の学生に対する懲戒処分は、このような大学自治の権能に基づき、共同体としての大学の内部規律を維持し、教育目的を達成するために認められた自律作用にほかならない。

このように、大学の学生に対する懲戒処分は、教育作用としての意義を有するから、懲戒処分に際しては、当該処分の対象とすべき行為の軽重のほか、本人の性格および平素の行状、右行為の他の学生に与える影響、懲戒処分の本人および他の学生に及ぼす訓戒的効果、右行為を不問に付した場合の一般的影響等諸般の要素が考慮されなければならないところ、これらの諸点は、いずれも実際に教育を担当する者が、個別具体的状況を踏まえ、専門的、自律的に、判断してはじめて適正な結果を期することができるものである。それ故、学生に対し懲戒処分を行うかどうか、懲戒処分のうちどのような処分を選択すべきかを決定することは、それが全く事実上の根拠を欠く場合であるか、もしくは社会通念上著しく合理性を欠き懲戒権の範囲を逸脱したものと認められる場合を除き、大学内部の自主的、裁量的判断に委ねられているものと解するのが相当である。

しかしながら、学生は大学に入学を許可されることによつて前述の共同体としての大学の構成員となり、当該大学において一定の数育を受け、その大学の施設設備を利用し、みずからも研究活動を行う権利を与えられるものであり、懲戒処分は、このような学生の権利ないし身分に対する一定の不利益処分にほかならず、特に、退学処分は、他の懲戒処分と異なり、学生の権利ないし身分そのものを剥奪し、学生を学外に放逐する終局処分であつて、大学としても、当該学生の教育的改善を断念するものであるから、これを学外に追放することが、学内の教育環境を維持し教育目的を達成するために真にやむを得ないと認められる場合にかぎり、最も慎重になさるべく、いやしくも教育的処分の名のもとに、学生の教育を受ける権利が不当に侵害されることがあつてはならない。学校教育法一一条の規定に基づく同法施行規則一三条三項が、退学処分について処分事由を限定的に列挙しているのも、このような見地から、その裁量判断を慎重ならしめたものとして理解されるべきであり、同項四号にいう「学校の秩序を乱し、その他学生としての本分に反した者」に該当するかどうかを判断するにあたつても、学生の犯した行為が、大学の秩序を著しく乱しあるいは著しく学生の本分に反し、このような学生には、教育的見地から反省を促す余地がなく、当該学生を学外に排除することが真にやむを得ないと認められる程度に情状の重い場合にはじめて退学処分に付することができるものといわなければならない。

この点につき、佐賀大学学則四四条は、学則違反または学生の本文に反する行為をもつて、懲戒事由と定め、懲戒の種類について、学長は訓告、停学、退学の懲戒処分をなし得る旨規定するほか、ことさら、退学事由を挙示していないが、これをもつて、被告に全く無制限な自由裁量を許したものと解すべきではなく、前述の趣旨に従い、慎重かつ適正な処分をなすべきことを要請しているものと解さなければならない。

二  原告の事実誤認の主張について

1  被告は、原告が木室事件および藤井学生部長事件に直接関係したこと、すなわち、木室事件の際、(1)木室課長補佐の耳元で「学生部長を出せ。」と大声で怒鳴り、(2)その後しばしば同課長補佐が監禁されていた学生課事務室に在室していたこと、藤井学生部長事件の際、(3)他の学生が藤井学生部長に対し侮辱的言辞を弄していたのに呼応して「もつとまじめにやらんか。」などと大声で怒鳴り、(4)用便に立とうとした補導委員に対し、二度にわたつて、他の学生らとその前方に立ち塞がつてこれを妨害し、(5)藤井学生部長を乗せた担架が運び出されようとした際、他の学生らとともに前方に立ち塞つてこれを阻止し、(6)同学生部長を救出するため、教養部長室の廊下側出入口から入室しようとしていた職員らに対し、出入口に立てかけてあつた机越しにゴム紐状のものを振り降ろして右職員らの手を力いつぱい殴打したことを本件処分の事由とするものであると主張するのに対し、原告は、右両事件のほか、原告がいわゆる西門襲撃事件に参加したことも処分事由として付加されていると主張するので、まず、この点を検討する。

〈証拠省略〉を総合すると、本件処分の審議に際し、事実関係を明らかにする資料となつたのは、全学補導協議会の行つた事実調査の報告書である「学生部長不法監禁事件状況経過」と題する書面(〈証拠省略〉)だけであつて、これが唯一の判断資料とされたこと、右報告書には木室事件および藤井学生部長事件のほか、二月九日午後九時五〇分、西通用門を自転車で通りがかつた会計課中村事務官を原告ら角棒を持つた学生約一〇名が襲撃し、中村事務官は自転車を置いて逃げた旨明記されていることが認められるので、被告が本件処分を決定するにあたり、原告がいわゆる西門襲撃事件に参加したことも参酌したものと推認せざるを得ない。

2  そこで、原告に右の各処分事由が認められるかを検討するに、原告が木室事件および藤井学生部長事件に参加し、被告主張の前記(1)ないし(6)の各行為をなしたことは既に認定したとおりである(もつとも〈証拠省略〉によると、原告が振り降ろしたゴム紐状のものは、廊下側職員の身体をかすめたに過ぎなかつたことが認められ、従つて、前記(6)の行為は、その点で、一部事実に符合しないものというべきである。)。

しかし、原告がいわゆる西門襲撃事件に参加したことについては、これを窺わせるに足りる証拠はなく、かえつて、〈証拠省略〉によると、いわゆる西門襲撃事件なるものは、右中村証人を含む数名の学生が、大学西側通用門付近を自転車で通りがかつた一人の事務官に対し、「ちよつと待て。」「話しがある。」といつて呼び止めたところ、同事務官が自転車を放置したまま逃げ出してしまつたというのが事の真相であつて、原告はその際たまたま現場を通りがかつたに過ぎないことが窺われ、右学生らが右事務官に暴行を加えたことを認めるに足りる何らの証拠もない。そうすると、被告において、原告が右事件に参加したものと認定し、本件処分事由の一に加えたのは、被告の誤認に基づくものといわなければならない。

3  ところで、懲戒処分の対象となる事実の認定は、懲戒権者の裁量に委ねられているものではなく、客観的かつ厳正になさるべきであり、従つて、事実誤認に基づく懲戒処分は瑕疵あるものとしなければならないが、事実誤認を理由として懲戒処分を取り消すためには、その瑕疵の程度が著しく、処分自体が全く事実上の根拠を欠くとされる場合でなければならず、その程度に至らない比較的軽微な誤認の場合には、誤認部分を除いた事実関係のもとでの当該処分の適否をさらに検討する必要がある。

これを本件についてみるに、本件処分の対象とされた原告の行為には、前記の点について、部分的に被告の事実認定に誤りがあつたことが認められるが、全体の処分事由からすれば、比較的軽微な誤認であつて、本件処分が全く事実上の根拠を欠くものとはいい難く、従つて、被告の認定に誤りのなかつた前記(1)ないし(6)の各行為が退学事由に該当するかどうか、該当するとして、本件処分を選択することが、被告の懲戒権の範囲を逸脱したものと認められるかどうかをさらに検討しなければならない。

三  原告の懲戒規定非該当性および懲戒権濫用の主張について

1  前記認定のとおり、木室事件および藤井学生部長事件は、直接には、大学当局が学生の設置した立看板を前記掲示内規に違反するという理由で撤去したことを契機として引き起こされたものであるが、一方、それは、学寮間題に端を発した学内紛争の激化した一局面であるともみうるものであつて、このようないわゆる大学紛争の過程における学生の行為が、学内の秩序を乱しあるいは学生の本分に反するものかどうかを決定するには、当該行為の動機・目的・手段、方法およびその背景事情等を広く考慮する必要があり、その行為の規範的評価をなすにあたつては、紛争の一方当事者である大学側のとつた態度をも充分考慮し、また紛争の経緯経過との関連の中で、これを把握し判断しなければならない。よつて、以下、この点を検討する。

(一) 動機、目的について

大学の自治は、直接には教官その他の研究者に対して、その研究教育の自由を維持するため、学内の管理運営を自主的に決定する権限と責任を付与したものと解されるが、他方、大学の学生は、共同体としての大学の必要不可欠の構成員として、そこに学びかつ研究する権利が認められ、また大学における教育と研究は、一体不可欠の関係において行われるものであるから、大学の学生は単に受動的存在に止まらず、学問研究の一翼を担う主体的存在として理解されなければならない。そして、学生は常に自由かつ自主的な精神と批判的態度をもつて研究にあたり、真理の探究の方途を体得すべきことが要求されているものというべきであるから、このような主体的存在としての学生が、共同の意識に支えられて集団を形成し、その自主的活動を通じて、みずからの利益を主張し、一定の範囲で大学の管理運営について要望し批判することは許されてよく、大学当局は、常に学生との間で話し合いを行うなどして、このような学生の要望などを充分反映させた管理運営に務めるべきであり、また学生との交渉を通じて確立、承認された慣行は、できる限り尊重し、学生側にとつて有利な条件を充分な話し合いを経ることなく強制的に奪うようなことも厳に慎しむべきである。

ところが、大学当局は、電水料および人退寮選考権をめぐつて学生との間に鋭い対立が生じていた学寮問題や、学生がその撤去に強く反対していた講堂問題などいずれも学生の自治活動に直接影響を与える間題について、学生との間で充分な話し合いを持とうとせず、従来の慣行を一方的に無視するなどして強硬な措置をとるに及んだばかりか、学寮問題については、前記しおり協定等によつて、再三にわたり話し合いで問題を解決していくことを約束しながら、いざ話し合いの場になると、形式的に、前記懇談会規定をたてに、学生側の人数を制限し、いわゆる学生団交をかたくなに拒否して話し合いを空転させ、そのため学生側に強い不信感を抱かせたこと既に協定のとおりであつて、このような大学当局の硬直した姿勢は、学生の自治に対する正当な認識を欠き、これを軽視するものとして当然批判を免れないであろう。そもそも、前記懇談会規定は、大学側と学生側の信頼関係を前提として、通常の大学運営上の諸問題につき、双方が少人数で懇談会を持つべきことを定めたものと解され、両者の意見が本質的に鋭く対立し、相互の信頼関係が失われた大学紛争という異常事態においては、右懇談会形式に固執することが、適切な紛争解決のためにふさわしいものであるかは疑問である。しかも、学寮における電水料の寮生負担は、それまで寮生に認められていた有利な条件を奪うものであり、また入寮者の選考を寮生が自主的に行うことも、直ちに大学の管理権を侵害するものとも認められないのであるから、大学当局は、これらの点について、学生の意見や要望を真摯に受けとめ、学生団交の要求に対しても、もうと積極的な姿勢で臨むべきであつたというべきである。

さらに、大学が学問研究と教育活動にふさわしい秩序と環境を維持整備し、学生に対する教育目的を達成するため、学則その他の規則を制定し、学生が遵守すべき一定の規律を定立しうることは当然であり、大学当局が、大学の管理運営上、これにてい触する学生らの言論行使の方法を制限することも、それが大学の在り方や目的に沿う合理的根拠を有する限り、直ちに憲法二一条や二三条に違反するものというべきではない。しかしながら、大学の学生は、その自治活動を通じて一定の利益主張を行い、大学の管理運営について要望し批判することが認められるべきこと前述のとおりであり、また大学における研究と教育は、絶えず新たな真理を探究する自由にして批判的精神に支えられてはじめて充分な効果を期待できるものであるから、大学における表現の自由は何よりも尊重されなければならず、このような制度も必要最少限に止められなければならない。従つて、学生の自治活動を不当に制限するような掲示物規制は再検討されて然るべきである。

ところで、佐賀大学においては、既に認定したとおり、前記掲示内規によつて、学生が集会を開きあるいは掲示物を設置するについては、大学当局に所定の届出をなしまたはその許可を受けなければならないことが定められているが、右内規は、「学生の団体及びその団体の行動が、本学の機能を害し、又は学内の秩序を乱す恐れがあると認めたときはこれを禁示することがある。」旨の条項が置かれているなど極めて漠然とした抽象的要件のもとに、学生の表現の自由を制限するものであつて、その内容には問題があつたばかりか、右内規が制定された当時と比較して学生数も大幅に増加し、学生の諸活動も活発化するなど学内事情も異なるものとなつたため、右内規については、既に現状にそぐわないものであるとして、これを根本的に改正すべきであるという意見も有力に主張され、現にその改正の要否につき検討が加えられていたこと既に認定したとおりであるから、大学当局においても、その運用にあたつては、学生の自治活動を不当に制限することのないよう慎重に配慮すべきであつたといわなければならない。

ところが、大学当局は、前記学内紛争が発生し、それにともなつて、学生の言論活動が活発化した昭和四一年ころから、右内規を唯一の根拠に、学生の設置した立看板等を次々に撤去するなど従来以上に厳しい規制を加えるに及んだこと既に認定したとおりであつて、このような大学当局の一方的な姿勢は、いたずらに学生を刺激し、紛争を激化させたものとして反省されなければならないであろう。確かに、学内の規制を遵守すべきことは、大学の構成員たる学生にとつて当然の義務であり、その限りで、再三にわたる大学当局の警告にもかかわらず、無許可で立看板等を設置し続けた学生側にも反省すべき点が認められるとはいえ、学生が所定の掲示場以外の場所にその闘争目標を記載した立看板等を設置したからといつて、直ちに大学の秩序を乱したということもできないし、そもそも、このような無許可の掲示物が後を絶たない原因を究明することなく、これを一方的に取り締まるだけでは問題を根本的に解決することはできないのであるから、大学当局は、右内規につき具体的基準を設けて検討吟味するなど適切な措置をとるべきであつたといわなければならない。

このように学寮問題や立看板撤去問題に関する大学当局の姿勢は、必ずしも適切妥当なものであつたとはいえず、これに不満を抱いた学生らが、その自治活動の一環として、大学当局に反省を迫りあるいは抗議するため、学生部長交渉を要求するに至つたことは、むしろ当然のことであつて、その動機、目的は一応正当なものであつたといわなければならない。

(二) 本件監禁事件当時における大学当局の態度

しかも、木室課長補佐は、学生らが前記立看板撤去に対する抗議と学寮問題等早急に解決すべき事項について話し合いを行うため、藤井学生部長に面会を申し出ても、必ずしもこれを真剣に取り次ごうとせず、かえつて、学生らの要求を無視するような態度に出て学生らに不信感を抱かせたこと、また藤井学生部長は、当日事務官を通じて多数の学生が面会を求め、学生課事務室において木室課長補佐を追求していることを聞知しながら、約九時間近くも学生との話し合いに応ずることを拒否し、そのためいたずらに学生を刺激して木室課長補佐の救出を困難にしたばかりか、陽動作戦と称して、学生自治会室のスピーカーを撤去し、その間隙を縫つて同課長補佐を実力で奪い返そうとしたり、ようやく開かれた話し合いの場においても、繰り返し前記懇談会形式を固執して、学生らがこれに応じないと一切の話し合いを拒否する態度をかたくななまでにとり続けて学生を激昂させ、事態の収拾を益々困難にしたこと前記認定のとおりであつて、こうした大学当局の学生に対する不誠実な態度が、学生らの反抗心をかりたて、その過激な行動を誘発して、本件事件を惹起させるに至つたものとも考えられる。

(三) 手段、方法について

しかしながら、木室事件は、藤井学生部長が話し合いに応ずるまでの約九時間にわたり、木室課長補佐をいわば人質として監禁し、その間、同人に対し、口々に罵声を浴びせかけ、その胸部を手で小突きあるいは椅子に押しつけたり足蹴りにするなどの暴行を加えその胸部にペン先を突き付け、その面前で小刀を開閉して脅迫し、さらに数回にわたつてその生理的要求を阻止し、そのため多数の学生の前でビニール袋に用便をさせるなどの屈辱を与え、さらに同人の健康状態に異常を生じた後も医師の診察を阻止しあるいは教職員の入室を拒むなどしてその救助をも妨害し、藤井学生部長が話し合いに応ずるまでは絶対に解放しないという態度を頑強にとり続けたものであり、また藤井学生部長事件は、前記教養部長室の出入口に机を積み重ねるなどしてバリケードを築いたうえ、大学当局の再三にわたる説得や退去命令を無視して約一九時間にわたり、藤井学生部長ほか補導委員らを監禁し、その間、「馬鹿野郎。」「犬以下だ。」などと罵詈雑言言を浴びせかけ、同学生部長の大腿部を手で小突きあるいはその面前で灰皿を叩き割るなどしたうえ、再三にわたつて用便を阻止し、さらに同学生部長らが疲労のため仮眠をとろうとしても「眠るな。」などといつて間断なく追求を続けてこれを妨害し、大学当局が差し入れた食事まで奪い取るなどして執ように謝罪要求を繰り返し、同学生部長の容体が悪化し、医師が危険を告げても解放せず、疲労困憊して倒れ込んでしまつた同学生部長になおも協定書の署名を求め続け、さらに救出の担架を奪い取りあるいは同学生部長を乗せた担架の前にスクラムを組んでその搬出を阻止し、ゴム紐状のものを職員らめがけて振り降ろすなどしてその救出活動を妨害するに及んだものであること既に認定したとおりであつて、このような非人道的かつ暴力的実力行使は、これに参加した学生の動機ないし目的がどうであれ、とうてい許容しがたいものであつて、理性の府たる大学に学ぶ学生の行為として、社会通念上許容される限度を著しく逸脱し違法なものといわなければならない。

2  してみると、前記認定の学生らの行動は、大学の秩序を乱し、著しく学生の本分に反するものというほかはなく、原告は、これらの行動に直接参加し、前記認定の行為に及び、そのうち、特に、藤井学生部長事件に際しては、補導委員らの用便を二度にわたつて阻止したばかりか、同学生部長を乗せた担架の前に立ちはだかるなどしてその搬出を妨害し、さらに救出にあたつた職員めがけてゴム紐状のものを振り降ろすなどの暴力的行為をなし、進んで積極的役割を果たしたのであつて、被告が、これら原告の行為をもつて、大学の秩序を乱し、著しく学生の本分に反するものとして、もはや原告には大学教育を受ける適格性がないものと判断し、退学処分に付したのは、前記説示の懲戒処分の本質に照らし、やむを得ない措置であつて、右の判断が社会通念上著しく合理性を欠き、懲戒権者に許された裁量権の範囲を逸脱したものということはできない。

四  原告の手続違背の主張について

1  大学の学生に対する懲戒処分は、学生の権利ないし身分関係に対する一定の不利益処分であり、特に退学処分は、学生の権利ないし身分そのものを剥奪する重大な処分であるから、その決定にあたつては、実体上慎重な判断がなさるべきこと前述のとおりであり、従つて、その手続においても、懲戒権者の恣意、独断等を排除し、その判断の公正を担保するため、処分を受ける学生に対し、弁明の機会を与えるなどの事前手続を経ることが望ましいことはいうまでもないところである。しかしながら、大学の学生に対する懲戒処分は、学内秩序を維持し、教育目的を達成するために行われる教育作用であつて、その決定に際しては、合目的的要請が強く働くうえ、これを規制する手続法規ないし確立した慣行も存在しない(当時、佐賀大学にもそのような学則、内規等はもちろん、右事前手続を義務付ける慣行も存在しなかつた。)のであるから、判断の公正が実質的に担保される限り、右のような手続をとるかどうかは、処分の選択と同様、懲戒権者の合理的裁量に委ねられているものと解するのが相当である。

ところで、本件処分に際して、原告に対し弁明の機会が付与されず、処分の通知書に処分理由が記載されていなかつたことは当事者間に争いがないところであるが、前記認定の本件処分に至る経過および当時の学内の異常事態等に照らすと、懲戒処分を前提とする事前手続が果たして正常にできたかは極めて疑問であり、右手続を実施することによつて、再度学生らの暴力行為を誘発する危険性さえあつたものと推認されるうえ、本件処分の対象ときれた原告の行動は、多数の補導委員の面前でなされたものであり、いわば現行犯的行為として、事実誤認の危険性が乏しかつたこと(本件処分の対象とされた事実につき、著しい事実誤認がなかつたこと前述のとおりである。)、また本件処分は学内規則に基づく所定の機関の慎重な審議を経て決定され、被告の独断ないし偏見により特に不公平な処分が行われた形跡も認め難いことさらに原告は本件処分に抗議するため経済学部長に面会を求めた際、その処分の理由を口頭で告知されたこと前記認定のとおりであるから、これらの事実を総合すると、本件処分の公正は実質的に担保されていたということができるのであつて、本件処分に際して、原告に弁明の機会を与えず、処分の通知書に処分理由を記載しなかつたからといつて、直ちに、本件処分が違法になるものではないというべきである。

2  つぎに、佐賀大学における懲戒処分の手続は、懲戒処分に付される学生の所属する学部教授会および評議会の各審議を経て学長が決することとされているところ、本件処分の審議をなした経済学部教授会および教養部教授会は、いずれも原告を停学処分に付するのが相当であると判断したのに対し、評議会は退学処分を相当としたため、教授会と評議会の意見調整がなされたが、一致せず、結局、被告学長は評議会の決議に従い、本件処分を行つたこと既に認定したとおりである。

ところで、大学の自治は、前述のとおり、大学における研究と教育の自由を確保するために認められた教官その他の、研究者の自治を意味するから、学校教育法五九条は、大学には、重要な事項を審議するため、教授会を置かなければならない旨規定し、教授会をもつて、大学の必須機関とするとともに、これによつて、大学自治の強化保障をはかつている。従つて、大学の管理運営について、教授会の決議は当然尊重されるべきであり、学生の懲戒処分についても、その事柄の性質上、当該学生を直接指導教育する所属学部の教授をもつて構成される教授会の意見が特に重視されなければならないから、学長は学生の懲戒処分をなすにあたり、教授会の意見を充分に尊重し、みだりに教授会の決議と異なる処分を選択することは慎しむべきであり、また学生の懲戒処分につき、大学内部に意見の対立があることは、教育上も大学の円滑な管理運営上も、決して好ましいことではないから、本件処分につき、被告学長が、教授会の決議と異なるより重い懲戒処分を選択したことは強い批判を免れないであろう。しかしながら、学校教育法一一条に基づく同法施行規則一三条二項は、学生に対し、退学、停学及び訓告処分をなす権限が学長にあることを規定するのみで、その審議手続につき何らの規定も置いていないから、一般的に教授会の決議が学長に対し、法的拘束力を有し、学長がこれと異なる処分を選択することが全く禁止されているとまで解することは困難といえよう。この点に関し、学校教育法施行規則六七条は、学生の入学、退学、転学、留学、休学、進学の課程の修了及び卒業は、教授会の議を経て、学長が、これを定める旨規定しているが、同条は、その規定の位置および条文の文理から明らかなように、懲戒によらない退学処分についてその形式を定めたものであつて、同条にいう退学は、懲戒処分としての退学処分を含まないと解されるから、同条を根拠に教授会の決議に法的拘束力を認めることも困難であろう。そのうえ、前記佐賀大学における学生懲戒手続に関する内規も、被告学長が教授会の決議に絶対的に拘束されることを規定したものとも解し得ないから、本件処分につき、被告学長が前記教授会の決議と異なる処分を選択したことをもつて、直ちに違法とまで断ずることは相当でない。本件処分に際しては、既に認定したとおり、教授会および評議会において審議が繰り返された後も、意見の調整がつかなかつた結果、被告学長において、評議会の決議に従つて、原告を退学処分に付するのが相当であると判断したものであり、被告学長が、ことさら教授会の意見を考慮せず、本件処分に及んだとも認め難いから、本件処分が教授会の自治を侵害した違法なものであるということはできない。

五  結論

してみると、本件処分は、実体上も手続上も適法であつて、原告主張のような瑕疵はないから、原告の本訴請求は結局理由がなく、これを棄却することとし、訴訟費用の負担につき行政事件訴訟法七条、民事訴訟法八九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 塩田駿一 三宮康信 窪田もとむ)

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